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善養寺 (世田谷区) : ウィキペディア日本語版
善養寺 (世田谷区)[ぜんようじ]

善養寺(ぜんようじ)は、東京都世田谷区 野毛にある寺院。真言宗智山派に属し、深沢村(現在の深沢地区の一部)から江戸時代初め、慶安年間(1648年-1651年)に移転してきた〔『ふるさと世田谷を語る 野毛・上野毛』54頁-56頁。〕。本堂の前にあるカヤの大木(善養寺のカヤ)は樹齢700年とも800年ともいい、1964年に東京都の天然記念物に指定されている〔『東京都の文化財 3』84頁。〕。
== 歴史 ==
善養寺は多摩川のほとり、国分寺崖線沿いに位置する。正式の名を「影光山仏性院大毘廬遮那殿善養密寺(ようこうさんぶっしょういんだいびるしゃなでんぜんようみつじ)」といい、京都市東山区智積院の末寺である〔『改訂・せたがやの散歩道』163頁。〕〔『ふるさと世田谷を語る 野毛・上野毛』116頁-118頁。〕。
江戸時代以前には、この寺は深沢村にあったと伝えられる〔『史料に見る江戸時代の世田谷』106-108頁。〕。この寺の僧侶だった祐栄阿闍梨(慶安5年7月26日遷化)〔という僧が、本山の智積院で修業を積み、深沢村へと戻ってきたが不在の間に寺は荒廃していた。慶安年間に祐栄は下野毛村〔下野毛村は、野毛一丁目から三丁目と野良田(1932年に玉川仲町と改称し、1969年の住居表示に際して中町となった)にあった飛び地で構成されていた。1889年に用賀村、瀬田村、上野毛村、等々力村、奥沢村、尾山村、野良田村などと合併して東京府荏原郡玉川村となった。〕字根通りに寺を移転したと伝えられるが、『新編武蔵風土記稿』巻之四十九、荏原郡世田谷領菅刈庄下野毛村の条に「ソノ年歴詳ナラズ」と記述されている上、現在地への移転以前の善養寺のことについては文献がないためほとんど知られていない〔〔〔〔尾山台・街あるきスポット ストリートガイド・フォーシーズン、2012年4月14日閲覧。〕。
一時期無住の時代もあったが、2012年の時点で判明している歴代住職は開祖の祐栄から数えて20人である〔。新編武蔵風土記稿巻之四十九には「真言宗新義ニテ、等々力村、満願寺ノ末寺ナリ」と記述されていた〔。1872年(明治5年)の『古義真言新義真言本末一派寺院明細帳II』という資料によると、善養寺の住職は谷沢川沿いにあった浄音寺(じょういんじ)という無住の寺の住職も兼任していた〔『世田谷区寺院台帳』、161頁。〕。浄音寺は山号を「慈眼山」(じがんさん)といい、当時の善養寺と同じく新義真言宗に属し、やはり満願寺の末寺であった〔〔。その後浄音寺は火事によって全焼して廃寺となり、満願寺に合併された〔。浄音寺は跡地近くの坂に「浄音寺坂」という名前を残している〔。
本尊は金剛界大日如来で、木彫漆塗り、高さは4尺余の坐像である〔〔。毎月1日には本尊のご縁日として大護摩供養が修行され、正月元旦にも元旦護摩が行われる。その他に節分会、施餓鬼、春秋の彼岸なども修業されている〔。世田谷区野毛や中町近辺、川崎市高津区下野毛を始め、都内や近県に檀家を持っている〔〔。
善養寺は玉川八十八箇所32番及び玉川二十一箇所14番の札所である〔〔。巡礼歌は「おごそかに 如来の大悲 かがやけり たまの川辺の 榧(かや)のみてらに」である〔。なお、境内からは鎌倉時代から室町時代にかけて造られた板碑が18基出土している〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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